8月9日Vol.103:配信
連載:社員インタビュー
第5話_大場登美夫さん(施設課)

機械を治す前に、人を治せ

東京に、豚の革の仕入れ先の工場がある。その工場のバンドマシンが全然動かなくて、先代から相談に乗ってくれと言われたことがあった。ちょうどうちに、使ってないマシンが1台あったから、それをオーバーホールして持って行った。

革業界の機械屋は、もう、ほとんど存在していない。俺が若い頃は全国にたくさんあった。そのメーカーで働いていた人が、頼まれて、リタイア後にコツコツやっているような状況かな。皆、高齢だから、いずれそれもなくなる。引き継ぐやつはいないからね。

千葉の柏に中村っていう機械メーカーを扱う増田製作所というのがあって。そこで働いていた人の息子さんが、後を引き継いで1人で部品作りをやっている。そこがなくなったら、もう、この機械を直せるところはないだろうな。

栃木レザーの機械はメンテナンスがやりやすい。絞る、伸ばす、切る、アイロンをする、色を染めるといった機能を持つ機械が多く、大きな負担がかかることに弱い。問題は水を使うから壊れるリスクが高いことかな。

機械的には、そんなに高度なものはない。100分の1だとかの精度を出すものはなく、せいぜい100分の50ぐらい。

制度を出すというよりも、見た目の美しさをだす機械という感じ。アイロンにしても艶の出方。調整が悪いとテカりが出ない。アタリの強いところだけが光ってしまう。機械はそこまで判断しないから、人の判断が大事なんだよ。圧力は設定通り動くけれど、細かい調整は機械じゃなくて、人が見てやらなくちゃいけない。ここには、そういう機械ばかりがある。

つまり、使う人によって機械の調子がかわる。その良さが生かされるか生かされないかは、使う人次第なんだよ。

昔はよく言ったよ。「機械を直すよりも先に、人を直せ、人を教育しろ」ってね。徹底的に責任を持たせてやらないと、機械が持たないんだよな。

昔は、作業がきつい工程は、同じ人がずっとやっていたけど、今はローテーション。人が変わるたびに壊れる。だいぶ減ったけど。人が変わると調整が変わり、手入れも変わる。大事にする人もいれば、どうせ半年で持ち場が変わるんだから、手入れは次のやつに任せよう、という感じになっちゃう。

「俺たちは、この機械で飯を食うんだ」っていう考えのある人は少ない。だから、時々怒るんだよ。「お前ら、これで飯食ってんだぞ。この機械があるから、給料もらえてんだぞ」って。この機械が壊れたら、 壊れた機械の修理代は会社ではなく、お前らが払うんだと。そう言うんだけども、真剣に考えてくれる人はあまりいないよ。

気がつけば、ここに来て19年。随分と長くいたな。好き勝手なこと言わせてもらってきたけど、俺一人がガタガタ言っても、変わらない。でも、必ず良くなると信じているよ。

色々あったけど、幸せだった。そう思えるのが一番だよ。

8月8日Vol.102:配信
連載:社員インタビュー
第4話_大場登美夫さん(施設課)

伝統を貫いた先代といつも・・・

国内でタンニン鞣しをやっているところはあるけど、うちみたいなピット槽はもう、数少ない。それを残したのは先代。俺は、そんなの先細りだって言ったけど、この会社は硬くて厚い革を使い、「昔ながらのやり方で生きてきたから、俺はこれを残すんだ」って。

ピット槽で日本一になると言うから、技術じゃないのか?って聞いたら、最後まで残れば一番だ、と言い張る。そういう考え方もあるのかと思ったけど、今、それに近くなった。

あれは栃木皮革の頃だったかな。ドラムタンニンに挑戦したことがあった。単純に言えば、桶で藍染めをやっていたのを、薬品いれて洗濯機でやるようなもの。

結城から出向した人がここの工場長になって挑戦したことあるけど、革が厚すぎてだめだった。トラがすごい。その人、多分、関西の方へ行ったはず。姫路レザーなんて流行りだしたけど、その人が技術を伝承したのかもしれないね。俺の勝手な想像だけど。

今から30年くらい前、中国に行った革屋の技術者が随分といた。結局、中国のものが良くなったのは、日本から技術が流れたから。日本は公害の問題でつくれなくなっていたから、みんな中国へ行ったんだよ。だから、安くてそこそこいい革。これ、みんなメイドイン中国。

それに対して、栃木レザーは昔ながらの手法にこだわり、最高級の品質で勝負してきた。水洗い1日、毛を抜いて、脱灰してこれでもう約2週間。そしてタンニン層につかり約20日。絞って、伸ばして、干すのにまた1週間、2週間。1ヶ月以上かかるよな。

お客様から注文きても、納品は1ヶ月以上も先。みんな早くほしいんだよ。でも、そこに文句言わずに待っていてくれるお客様がいるからうちはやっていける。俺は、それを変えるべきだと言い続けてきたけどな(笑)。

8月7日Vol.101:配信
連載:社員インタビュー
第3話_大場登美夫さん(施設課)

壊すことからはじまる

機械は人がつくったもの。電気関係は別として、単純に言えば、ばらしたものを組み立てれば元に戻る。しっかり見て、丁寧にやれば、誰にでもできる。

廃棄するようなモーターでもあれば、よく、それをばらさせる。そうするとすぐ覚える。壊すことからやらないと。渡辺はだいぶできるようになった。育ってくれた。もう俺はいらないよ。

この栃木レザーには、結城化工から持ってきた機械がたくさん生きている。俺が19の時に初めて受け持った機械が、新館の1階で動いているよ。もう、51年。俺の人生の相棒。

結城でメンテをやっていた頃は、東京から週に一度、メーカーの人が点検に来ていた。俺は溶接がメインだったけど、2年目に入った時、その担当者が辞めることになって。「大場さん、この機械面倒みてくれないかな」と託された。3日ほどメンテの特訓を受けたよ。部品はどこに注文するとか、ここはこう直すとか。あれがメンテのはじまりだった。

あの機械だけは、ばらしてない箇所がないから、すべて頭に入っている。メンテしやすいように、余計なカバー全部外して、すぐに心臓部に触れるようにしてあるんだ。
19年前にここに来た時、驚いたよ。俺には別世界に映った。設備も揃ってなくて、よくものづくりしてるな、って。だから、リフトやゴンドラを造って、現場が少しでも楽に作業できるように整えてきた。

塩漬けになった皮をトラックから出すのも、一苦労だった。1枚1枚畳んである皮は、40キロ近くあるからね。それを引っ張り出すのは容易じゃなかった。

ある日、先代が仕入れコストを下げるために、フレコンバックで皮を買うと言い出した。フレコンバックは、皮がぐしゃっと入って塩水につかっているだけ。そうすると価格が下がるらしい。この工場は色々なことに対応できる環境が整っていないから、フレコンバックだと、現場はお手上げなんだよ。数年前、ユンボを導入して今は、楽になった。

今、原皮を洗ってる水洗い場のところも以前は、2階建てだった。高さがないと皮をいれられないから、2階の床を抜いて、リフトで上げてドラムの口に皮を入れるようにしたんだ。

この工場は、ものを大量に早くつくるのではなく、手間をかけてのんびりつくる仕様になっている。この工場だから、この革づくり。俺にとっては、最高に楽しい仕事ばかりだよ。壊したり作ったり。自由自在にできるからね。

8月6日Vol.100:配信
連載:社員インタビュー
第2話_大場登美夫さん(施設課)

好きにやってきたよ

運転手の仕事は長距離ばかりで、全然、家に帰れなかった。10年やったけど、かあちゃんが可愛そうでね。困っていたところにまた、連絡が入った。今度は先代の山本さんが「会いたい」と。結城化工の機械も引き取っているから、メンテナンスの仕事をしてくれないかって。それで、世話になった。

栃木の革は重くて掴みづらい。生産スピードも遅い。革の性質上、早くつくれないからな。タンニンが入りこむのに時間がかかる。乾燥にも時間がかかる。皮を伸ばしたり、削ったり、どんな工程も手間がかかる。厚くて硬いから。結城に比べると、ここはすべてがゆっくりと時間が流れている感じだよ。

「それじゃ、だめだ」なんて、どこでも、誰とでも丁々発止やりあったもんだった。今でも思ってるよ。俺は、何でも言いたいことをそのまま言うから。それも、よくなってもらうたい気持からだけどね。

俺の知っていた栃木皮革は、当時はポンコツな会社だったから。来た頃は、フォークリフトもなくて、リヤカーで革を運んでたよ。

先代はそれを天下の栃木レザーにしたんだからね。その努力は人並みじゃなかった。自分の信念を貫く、すごい能力があったんだな。同じ午年だけど、先代は暴れ馬で、おれは馬車馬だな。もう少し、生きててほしかったよ。

ここに入るときの条件は、何の地位もいらない。自分の仕事を自由にやらせてくれ。この二つだけ。中学の頃から70の今まで、そのスタイルは変わんないよ。

8月5日Vol.099:配信
連載:社員インタビュー
第1話_大場登美夫さん(施設課)

12の夏の夜・・・

俺の職人人生も長いよ。親父が経営する鉄工所が立ち行かなくなって、トラックの後ろに乗って夜逃げしたのが中学1年の夏休み。学校の先生にも友達にも会えず、そのままになった。

「学校は行かなくていい、仕事を覚えろ」と言うのが親父の口癖。だから、勉強なんてしたことがない。柔道部に入って運動だけは頑張った。中学の時に、すでに今の身長はあったな。あ、今は縮んでるか(笑)。

コンクリの型枠をつくる会社に世話になって、俺は家計を助けるために、部活が終わってから親父の仕事を手伝った。忘れられないのは、16の夏、社員旅行で大阪万博につれてってもらった時のこと。はじめての新幹線。窓側の席に座らせてもらったのに、窓が開かなくてガッカリだよ。そりゃ、そうだよな。あんなスピードで窓開くわけないよ(笑)。

その鉄工所では、工事をするための道具から建屋まで何でも自分でこしらえた。直系4メートルくらいの螺旋階段をつくったこともあった。人使いの荒い社長で寝ずに働かされたもんだった。限界を感じて辞めたけど、人を大事にしない経営者はだめだよ。

俺の友達が、革の会社で有名だった結城化工の常務のせがれで、口を効いてもらった。機械をさわれたから、メンテナンスの仕事をやることになって。19の時からこの業界。

結城は当時、栃木では栃木皮革(栃木レザーの前身)より大きかった。毛皮も手がけていてクロムがメインの皮革はいつも経営がガタガタ。だから、ボーナスは現物支給で、ミンクの毛皮。結局、箪笥の肥やしだよ。

火の車から立ち直れない結城で最後まで頑張ったけど、トラックの運転手に仕事を変えてね。その頃から、栃木皮革の村上さん(当時社長)に「うちに来ないか」と誘われていた。

あの時代は、物はお金出さなくちゃ買えないけど、人はいくらでも代わりがいた。そのせいか、人を大事にしない経営者は多かった。10代の頃に世話になった社長のようにね。俺には村上さんもそのタイプに映ったんだよ。だから、誘いを断り続けた。